現象する映画『超全体主義的性交』
大木裕之――遊泳性の鮫の面目躍如


 2006年12月の上映会で僕は、『超全体主義的性交』が大木裕之作品の一つの頂点であることを確認した。テーマ性、活気、エネルギー、観るたびに喚起される新鮮さ等々、それらいずれもが映像として「現に」事象化するのである。
「作品」は、鑑賞者と知的な系を成す(≒作品を契機として創作に参加すること)ことによって「芸術作品」になると思う。つまり芸術作品は、閉鎖系ではなく開放系でなければならならない。そのために作者は、さまざまな手法でさまざまな場所に、そこから鑑賞者が作品と共に系を成す「開口部」を設ける。開口部が多すぎれば系は崩れ、開口部の仕掛けがおもしろくなければ系を成すことはない。鑑賞者を一瞬にして取り込む絶妙な数の開口部こそが、芸術家の腕の見せどころなのである。
 その意味で、『超全体主義的性交』において大木裕之は実に巧妙な「策士」であると言えるだろう。1部屋1分間という制約を課し、映像を64の部屋に凝縮した。1分間の部屋には、現代人のありふれた日常あるいは非日常の「生態」が大木裕之の鋭利なカメラワークによって抽出され断片化された映像と音声が、ランダムに「計算されて」放射を繰り返し、重なり合いながら鑑賞者へと畳み掛けてくる。
 熱気にむせ返るそれらの分厚い映像は、鑑賞者が、次はどんな動作? どんな言葉? どんなシーン? と興味を抱こうとする、まさにその瞬間に次の断片へと移動し、絶え間なく鑑賞者の知性や感性を刺激しながら、ストーリー性のない64の断章を積み重ねてゆく。しかも、ストーリー性がないからこそ個々の映像の密度は極度に高まり、まるで僕たちが、不可逆な空間、可逆な時間を体験しているような現象を起こし、鑑賞者の深意識へ圧倒的に働きかけてくるのである。
 方向性の見えない時代、散乱する価値観、渦巻く生のエネルギーあるいは生の否定や拒絶等々の問いが、時代のカオス的うねりと共に僕たちを追いかけてくる。人々はなにを、どこへ、どのように? と。そう、この映像がスクリーンから消えても、過去は未来を内包し、未来は過去を内包しているから、鑑賞した者は「現在」としてこの作品と系を成しつづけるのである。
 大木は精力的に動きまわり、激しく磁場嵐を起こして人々を巻き込み、彼らの営為をいったん抽象化して、それから映像という具象へと反転させた。その力強いベクトルが『超全体主義的性交』という傑作を産みだしたのだ。

 ところで、これ以降の大木作品は、はっきり言ってつまらない。少なくとも僕は、それら作品群と芸術的な系を成すことができない。開口部も見つからないし、開口部らしきところがあっても引き込まれない。だいいち、「系が事象化している」かどうかすら確認できない。かつて映像の中に満ちていた、あふれかえる内的必然性や、深まりつづける問題意識、事象を射る鋭い視線、鋭角に踏み込むスタンスなどを感得できないのである。映像は単調平板になり、濃度が薄く、単なる断片の羅列を堪えられないほど退屈な「映画」として大木は提供する。この「退屈への拉致」は大木の法外な傲慢である。大木はきっとそれを自覚しているだろう。しかし、それは計算違いだ。もはや系を成すことは不可能で、「作品」ではない。
 これは僕だけの見方、感じ方かもしれないが、ここいらで一度、大木にはぜひ立ち止まってほしいと思う。彼は遊泳性の鮫であり、動き続けなければ酸素を取り入れることもできないから、遊泳をやめれば死の危険がある。だが、ひたすら動き続けることによって作品を走らせてきたことを承知のうえで呼びかけたい、「立ち止まって考えてほしい」と。
 そして、脱皮したビッグな大木を見せてほしい。

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