南淵明宏医師へのオマージュ――患者に名刺を渡す心臓外科医


 疾病を治療する手術時間はできるだけ短いほうがいい。とくに、血液を全身に送る心臓の手術はそうである。人工心肺装置を使っても使わなくても、長引けばそれだけ血液で運ばれる酸素や栄養素が充分に届かず、脳や種々の臓器、その他、体のあらゆる組織がダメージを受ける。手早く、かつ的確に手術を行なうことが求められるのだ。
 この心臓手術のスーパー第一人者が、医療法人公仁会大和成和病院心臓病センター長=南淵明宏という医師である。手術における桁違いの実績はもちろん、医療行為という仕事をさせてもらう医師が自己紹介するのは当然として患者に名刺を渡し、「私は、患者さんによって育ててもらった」という謙虚な人柄もまた「スーパー」なのだ。


 1958年生まれ。奈良県立医科大学在学中に心臓外科医を志し、卒業後、付属病院で第三外科の研修医となった。2週間目には、K教授による最高水準の心臓外科手術を目の当たりにし、その「カッコ良さ」に触れて、あらためて「心臓外科の執刀医」を目指すことを強く決意したのだった。
ところが、逸る南淵に対してK教授は、「論文を書いて偉くならなければ手術はできない」という。たしかに、ほとんどの大学で教授だけが手術をし、あとの人は助手を務めるだけ。
 しかし、執刀したいのに論文を書かねばならないとは、何か筋が違うのではないか? ――南淵は疑問を抱いた。時間が無駄なような気もしたにちがいない。車の運転技術だって、若いときに習ったほうが早く上達するし、後になってから免許を取ったドライバーよりはるかに上手である。手術も、若いときに執刀しはじめるほうがいいに決まっている。
 そこで南淵は、K教授の「大学院にいけ」というアドバイスに逆らい、2年後には戻るという約束をして、国立循環器病センターの専門研修医になった。ここには全国の各大学から研修医が来ており、彼らと知り合うことによって幅広い知識を得、おおいに刺激を受けた。やがて、彼らの多くが外国へ行きはじめた。それも、教授に紹介状を書いてもらうのではなく、自分自身で応募書類を出して売り込んでゆくのだ。
「手術をやりたい」のに、まだできないでいる南淵も、自分でアピールポイントを書いて応募した。いろいろな病院から断わられたが、オーストラリアのセント・ビンセント病院が受け入れてくれることになった。南淵はK教授との約束を破って、オーストラリアへ渡ってしまった。

 オーストラリアでは、南淵が想像もしなかった世界が待っていた。セント・ビンセント病院でいきなり、「(心臓バイパス手術に使う)足の静脈を採ってみろ」と言われたのだ。しかし、医師になって6年も経っているのに外科の手技など学んでいなかった南淵は、何をどうやったらいいかわからず茫然と立ちすくむばかりで、世界じゅうから集まっている心臓外科医たちの笑いものにされてしまった。まさしく、実力だけがものを言う世界だったのである。
 奈良医大では週一例、国立循環器病センターでは週二例の手術が行なわれたが、南淵が手がけたのは採血とガーゼの交換だけだった。これでは、心臓手術を2〜3時間で終わらせるオーストラリアのレベルについてゆけるわけがない。南淵はすぐにでもクビになることを覚悟せざるをえなかった。
 ところが、最初にやらされた足の静脈を採ることだけは、続けさせてもらったという。上のクラスの医師が、南淵に手術の才能があると見込んだのではないだろうか。とはいえ本人は、来る日も来る日も、ひたすら足の静脈を採りる作業はとても辛かったと述懐している。
 この、静脈を採取するだけの仕事が9ヵ月ほど続いた。まるで、バイエルやハノンだけを3年間練習させられるピアニストの卵のように、あるいは10年間、皿洗いだけをやらされる将来の料理人のように。
 南淵はこの間、メスや針、ピンセットの使い方、ナイフで静脈を見つける方法など、さまざまな高等テクニックを創意工夫し、身に着けていった。これこそが、現在の彼の技術を支える基礎トレーニングとなったのだった。
 以降、南淵は着実にステップを昇ってゆき、心臓を露出する段階まで任されるようになった。
 そして、丸1年が経ったある日、とうとうバイパス手術を一人でやらされた。初めてなのに、所要時間2時間18分! この瞬間から、南淵を見る周りの人々の目がガラリと変わった。心臓手術のプロフェッショナルとして認められたのだ。これこそ、国籍も人種も、出身大学も肩書きも、卒業年次も、先輩・後輩も、あらゆる属性とはまったく関係ない、その人の能力だけで評価される実力主義の世界なのである。なんともドライだが、だれもが納得できる、判りやすいジャッジメントだ。


 こうして、研鑽を積んでいる南淵のもとへ、日本の病院の心臓外科部長になる予定の医師から誘いの声がかかった。ところが、しばらくして彼からお詫びの連絡が入った。彼には何の人事権もないことがわかったのだという。
 心臓外科部長が、自分の部下の心臓外科医を自分の裁量で採用することができない……
 南淵はあらためて日本の医局制度に失望した。日本の病院の大半は各大学の系列下に入っており、人事権は、その病院に医師を派遣している大学の医局に君臨する教授が握っているのだ。南淵は日本に帰るのをやめて、国立シンガポール大学の病院に赴任した。
 シンガポールは心臓手術に関して、東南アジアでも最高のレベルである。バイパス手術の世界標準は3〜4時間なのに、8時間もかけて行なう日本の医療水準など、及びもつかない。そんなに長時間かけるのは、患者にとって危険きわまりないのだ。
 もともとシンガポールはイギリスの植民地だったから、大学も病院も研修システムもイギリスと同等である。つまり、医療レベルも同等と言ってよい。シンガポールだけではない、ジャカルタにもクアラルンプールにも、イギリス、カナダ、アメリカの専門医の資格を持っている心臓外科医が何人もいる。というより、海外の専門医の資格を持つ人のほうが普通なのだ。したがって、アジア各国の手術のプロたちは、いろいろな国の病院にスカウトされる。また、世界じゅうから優秀な医師を求めて患者さんがやってくる。そのような、国境を越えたローテーションが、さらに医療のレベルを上げてゆく。心臓外科手術の世界は、日本を除けばボーダーレスで、国境はないのだ。
 いっぽう日本はといえば、医師は医局内か、医局系列の病院への移動しかない。外国とのローテーションどころか、他の医局とのローテーションもない。最近、医局の力が弱まってきたとはいえ、まだまだその影響は大きく、日本の医療水準の進歩を遅らせる元凶なのだと、南淵は嘆いている。

 この封建的ともいえる日本の医療体質が、日本に帰ってきた南淵の身に襲いかかってきた。
 心臓外科を開設した病院に招聘され、培ってきたスキルを存分に発揮して手術の実績を積み上げ、周囲のスタッフも精いっぱい協力してくれて、これからという矢先だった。1996年の夏のある日、いつものように病院へ行ったら、院長から突然、「お前の部下がみんな、南淵とは手術ができないと言っているよ」と告げられた。南淵にとっては晴天の霹靂だった。何が彼らにそうさせたのか。自分としては精一杯やっていたつもりなのに。正直に丹精こめてやってきたつもりなのに。
 後でわかったことだが、「あんな頭のおかしな奴と一緒では働けない」と、当時のスタッフの一人は外部の医師にもらしていたという。
「他人の心とはわからないものだ。これが人間の社会なのだろう。いや、ひとえに自分が未熟なだけだ。とにかくもう、心臓の手術はこの病院ではできない」南淵はこう判断した。
 また、ちょうどそのころ開かれた学会では、南淵が近づくと人の輪ができて、みんなが彼を除け者にしているような気がした(実際には、これは考えすぎだったらしいが)。それくらい、人間不信に陥ったのであった。
 南淵は、医局に属していない医師の悲哀を味わった。腕一本で勝負するといっても、手術する場がなければ、どうしようもないのだ。憤りと悔しさを胸に、悶々と堪える日が続いた。
 しかし、捨てる神あれば拾う神あり。これまで南淵に患者を紹介してくれて、その腕の良さと誠実な人柄を知悉していた大和成和病院の院長が、南淵を誘ってくれたのである。南淵は人の優しさに触れ、深く感謝すると同時に、人間不信から解放される思いがした。
 当時の大和成和病院は、小さな手術室が一部屋あるだけで、整形外科や消化器の手術を年に数回やっている小規模な病院だった。
「整形外科や盲腸の手術も覚えなくちゃなのかな」と思いはじめていた南淵に、ある大学の医師から電話が入った、「いつから心臓手術を始めるんですか?」
 その言葉で、南淵は目を覚ました。
 ――自分にできることは、やはり心臓外科だけだ――
 南淵は、その思いを院長に話してみた。すると院長は、必要な機器や設備を整えてくれた。おかげで南淵は、再び心臓外科手術をすることができるようになった。文字どおり、ピンチをチャンスに変えたのである。  念願が叶って、南淵の才能は全開した。あちこちの大学病院の医師たちが患者を紹介してくれ、南淵は思いっきり腕をふるうことができるようになった。また、南淵に命を助けられた患者の親睦会が藤沢に彼を招いて、何人もの患者が彼を励ました。南淵は涙の出る思いで患者たちの言葉を受け止め、立ち直ることができたのだ。
 大和成和病院における南淵の超絶テクニックと、患者を心から大切にする医療姿勢はたちまち評判となり、大勢の患者が南淵の手術を希望してやってくるようになった。そして、大和成和病院で心臓センターを1996年9月に開設して以来、2005年の12月31日までの10年間で、南淵はなんと2,655例の心臓外科手術を行なったのである(1996-97年:133例、1998年:181例、1999年:211例、2000年:240例、2001年:312例、2002年:316例、2003年:381例、2004年:456例、2005年:425例)。その他、岡山大学病院、屋島総合病院(高松)、日赤医療センター(広尾)、長野日赤病院、岡崎市民病院、広島(安佐)市民病院、天津胸科医院(中華人民共和国)、ラジャワリ病院(インドネシア共和国)三井記念病院などでも招待を受けて執刀している。
 まさに鬼神のごとき実績としか言いようがない。この原動力の一部は、南淵の心臓手術をしたいという本然の欲求と、患者を救いたいという熱い願いの為せる業だろう。

 南淵は、まず患者に名刺を渡し、事前に手術のリスクを充分に説明することはもちろん、手術が終わったら、そのもようを録画したDVDを患者や家族に提供する。また、約2,000人の医師を前にして手術を行なったり、見学者を受け入れたり、学会に実況中継したりもする。これらは「自信に溢れた大胆な行為のように見えるが」と問うたら、「そうではない」と南淵は言下に否定した。
 録画装置が手術台の上に設置されているのだから、ただスイッチを入れればいいこと、記録されるのはまぎれもない事実・歴史であること、多くの医師が見ているからといって影響されるものではないこと、要するに人の命をこの手に預かるという大それたことをやってるのだから、上記の行いはごく当たり前のことだと南淵は気負いもなく話す。
 しかし、並みの医師にこんなことが言えるはずもない。自分で自分の途を切り開き、知見を広め、雑巾扱いから人間扱いされるまで努力を重ね、創意工夫を凝らしつつ 3,000例ほども執刀して幾多の修羅場を乗り越えた裏付けがあるからこそ、重みのある「当たり前」なのだ。見学した医師が、「簡単な手術でしたね。こんどは複雑な手術を見せてください」と見当違いのことを言うほど、合理的・効率的な手術法を身に着けた南淵だからこそ、「当たり前」に話せるのだ(ちなみに彼の手法では、血管を縫い終わったあとに猫の手をぽんと置いたようになる。これを「猫の手」と名付けたそうだ。南淵は、猫好きの茶目っ気たっぷりな人物でもある)。

 南淵はいつも、円空の彫った観音像のようにやわらかくほほ笑んでいる(とくに函館市船見町・称名寺蔵の観音像)。1日に約1.2人の割合で人の胸をメスで切り開き、故障した心臓という命のエンジンと格闘しながら、だ。失敗したら即、患者の命が失われるかもしれないという、極限の状態に身を置きながら、だ。手術中のトラブルで逃げだしたいと思う場面に何度も遭遇しながら、だ。悪夢に脂汗をかき、家にいても電話が鳴るたびに患者の容体が急変したかとドキリとし、亡くなった患者の顔を思い出しては自分を責めたりしながら、だ。
 そのほほ笑みの理由を尋ねたら、「自分自身では意識してないけれども、患者さんに対する感謝の気持ちが表われているのだろう」と南淵は答えた。
 患者に感謝するというのは、口では簡単に言えるが、心の底から実感している医師は、めったにいない。ほとんどの医師が、「治してやってるんだ、自分は偉いんだ」と思っているのだ。しかし南淵は、本心から感謝している。恐怖心に打ち克って手術をさせてくれる患者に畏怖の念を抱き、手術をさせてもらうことを「至福の瞬間」と観じている。心臓という臓器に対して神聖な気持ちで臨み、患者や自分のために「ゲン」さえかつぎ、祈りを捧げもする。理由はともあれ、結果に対して責任を持つことを心に決めている。そして、「手術をすることが自分のビジネスだ」と患者に伝えて、対等の立場に立つ。――南淵を手術に駆り立てる原動力の大半は、患者への感謝なのである。
 南淵の抱く深い感謝の念は、一時、まったく手術ができない状態に置かれたことと無縁ではあるまい。彼自身が書いているように、「永遠に手術ができないのだという絶望的な気持になった」経験があるゆえに、「手術ができることの喜びを深く感じている」のだろう。だからこそ、手術に臨むときの恐怖や不安より、成功したときの達成感のほうが大きいのであり、日々、この瞬間に生きていることに対する感謝の念を忘れることがないのだ。

 南淵の、苦悩と自責と恐怖と不安と、歓喜と許しと至福と感謝の日々はこれからも続く。


 尊敬措くあたわざる南淵先生、月並みですが、健康に気を付けて、これからも多くの患者さんを救ってください。後進を育ててください。また、日本の医療界に酸素をたっぷり含んだ風を送り込んでください。そして、頑張りすぎないでくださいね!

  大和成和病院ホームページ

【南淵明宏著『ブラック・ジャックはどこにいる?』(PHP文庫)その他と、筆者が2006年2月にインタビューさせていただいた記録から構成しました。2006年3月6日 記】

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