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詩人=武田肇へのメッセージ 『現代詩手帖年鑑2005』(2004年12月1日 思潮社発行)掲載、 武田肇著「詩書展望・地震の間ずっと、 遙か遠くの多世界境界面に力の複数性を感じていた。」 に関する掘削。 |
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多世界境界面に力の複数性を感じておられたのは、地殻の地核に沈降する断層エネルギーが貴兄へ語りかけてきたからにちがいありません。それゆえ「今の詩が、《戦後》概念そのものの大量消費から言語再創造の契機に向け、定義されていない詩の領域へ移動しつつあるという情況」だと指弾されたとき、僕は危うくものけぞったのでした。まさにジッターを生じながら、平行宇宙として敵わぬイマジネーション行為を撃ちつづけ、不確定性原理の直中へ螺旋しようとしてきたのは、はたして複雑系への迂回路だったのだろうか? 逆に単数性すら感じないでいられなかったのは、そんな他問をしないはずもありません。 しかも、「爆弾テロは、現存社会を転覆させる運動としては確かにキッチュだが、遠心力としては正しい。……遠心力はいずれどこかで、かつてそこにアメリカが占めていた空間の求心力に滑らかに接続できなければならない。」と貴兄が述べるとき、また不覚にも時間が可逆で「あった」ことに意表をつかれたのでした。 それはさておき、「短歌の定型が宇宙を汚染した原初のフレーム」あるいは「もろもろのイメージは詩であろうとするまどろみを不可能にするタナトロジーの「犀」であり、それが詩史的確率論を強弁に踏んづけて、はみだしてゆく」と濃密で変幻自在なセンテンスに目眩し、摘出される無のゆらぎにほくそえんだものです。そして、断じます、貴稿「地震の間ずっと、遙か遠くのアスペリティに力の複数性を感じていた。」は「散文詩」であると。 ところで、もちろん僕も「日本の詩人(龍門歩として=日本の芸術家)には自分の署名によって「反米」「反戦」をうたってほしくない」のですが、「完膚無きまで身体的変容を遂げて路上に放置された青年、実はあれこそ憲法九条を天皇と押し戴く、ぼくら日本人の現在の有りのままの価値形態そのものではないのか。」と書く貴兄と、「すべての権力体制の一元化を脱すべく、全社会的拡大への接続のレトリックを意識的に我がものとした人だけが、ノマディズム=プロレタリザシオンの経路を見出す。」と書く貴兄とは多世界境界面に差し渡されたモジュールのようで、これは僕の浅学菲才ゆえかと恥じ入るばかりです。 とまれ、「精神は物質の最高所産である」というマルクスの思惟こそ、未だに乗り越えられず、2進法によって数値化された人間−社会系は、そのイデオロギーによって労働者vs資本家の二分化を不可能にし、マルクス=エンゲルスのオイコノミアを暗既視へと透過したのではないでしょうか。 |
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