クラシック音楽大好き人間

 西洋のクラシック音楽は音を4次元集合として捉え、線形理論体系として構築された音の芸術です。作曲家は、その体系に則って「ゆらぎ」等を含めた非線形のイメージを乗せかけ、演奏において美的に非線形化=複雑系化するのです。ここに「集合」とは、専門的に追求しない素朴な意味の『〈思考の対象として明確な意味をもつもので指定した範囲内にあるものを集めたものを集合といい,その集められたものをその集合の元または要素という〉』(ネットで百科)という概念とします。
 なお、半音階を多用するワグナーあたりから始まっていた「線形理論体系の崩壊」は、シェーンベルクの「調性を否定した12音技法」などの「セリー音楽」が「非線形」的音楽観・技法を導入することによって加速したかに見えました。ところが、その後、多くの作曲家・聴衆を惹きつけていないように見受けられます。それは、セリー音楽においても一般的には演奏も当然、非線形的になりますが、特化した電子音楽・楽器となるとむしろ線形化します。コンピューターは非線形的な作曲・演奏をすることはできないからです。ここに、セリー音楽の発展が停滞した要因の一つがあるような気がします。

 ところで、音集合において基本的な「元」は、メロディー、リズム、ハーモニーで、ほかに音域・音色・強弱などなど、たくさんあります。クラシック音楽のすごいところは、これら多くの「元」を組織化し、リズム理論、音程とハーモニーの理論、楽節・楽段の構造その他、部分と全体の照応するほとんどすべての関係に及ぼして、精緻な音の「大系」として築き上げたところにあります(ネットで百科 参照)。その理論性、合理性、五線譜と同時に、音源(声・楽器)の多彩さ、音域の広さ、強弱幅の大きさを最大限に活用して、壮大な音の時空が展開されます。音楽が最高の芸術である所以です。
 このように、クラシックの作曲と演奏には高度な知的活動が注ぎ込まれ、結果として純度の高い知性的な音楽芸術が生まれるのだろうと思います。僕はいい音楽なら、ジャンルを問わず何でも好きです。しかし、何度も何十度も何百度も聴いても飽きないどころか、聴くたびに新しい発見のできるクラシックほど、深い感動と興味を覚える音楽はありません。レコード(LP、CDなど)を聴いてもそうであるのは、曲と演奏に、まさに汲めども尽きせぬ「複雑系」が籠められているからでしょう。
 ところで前述したように、期待されたセリー音楽はあまり「成果」を上げていないようです。作曲されているかどうかすら知る術がないうえ、聴く機会が少ないですし。レコード化されている少々古い現代曲を聴いても、感銘を受けるのはそれほど多くはありません。それは、バロックから古典派へと長い年月をかけて築き上げられた線形理論体系としての音楽が、人間にとって最も心地いいものだからでしょう。否、心地いいから体系化され、楽器も含めて改良を加えられながら連綿と受け継がれてきたのです。聴き手のイメージに沿って流れるメロディー、心臓の鼓動のように規則的なリズム、数的比例を基準としたハーモニーや書法が、生体としての人間に自然に感じられるのでしょう。新しい作曲技法を開発したとはいえ、規則に縛られたセリー音楽の不自由感や不自然感、聴き手のイメージの延長を否定する不協和音や変拍子、無調は、意外に根強い不快感を覚えるものです。
 自然に気持ちいいというのは、セックスと同じです。なぜ気持ちいいのかと問うたところで、正解はありません。数学で言えば「公理」みたいなものです。あえて言うなら、僕たちは非線形・複雑系であるがゆえに、線形的なものへあこがれを抱いているのかもしれません。また、他のジャンルの音楽も当然、セックスの気持ちよさと通じています。どの音楽が好きかは、セックスのパートナーとしてどんな相手を好むかに似ているようです。といっても、おおざっぱに言って、ガチガチの知性派からコテコテの官能派まで無限のグラデーションがありますから、先入観で決めてかかることはありません。「クラシック命」を自認する僕自身、好きな歌謡曲もあればジャズもあり、端唄(はうた)もあればテクノやユーロもミニマルもあります。
 ところで、十二音技法も採り入れた作曲家として、僕が最も好きなのはメシアンです。パイプオルガンやピアノなど器楽曲はもちろん、『夜の終わりのための四重奏曲』『トゥーランガリーラ交響曲』など、ほとんどが好きです。また、シェーンベルクの『グレの歌』、『浄夜』、ブーレーズの『マルトー・サン・メートル(打ち手のない槌)』、ちょっと違うけれど、バルトークの『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』『管弦楽のための協奏曲』やピアノ曲、ヴァイオリン曲などもよく聴きます。ベルクやシュトックハウゼンの曲に感銘したことはありませんが(少ない枚数のレコード鑑賞経験からです)。
 言うまでもなく、現代に至るまでに数多くの好きな曲、作曲家がいます。グレゴリオ聖歌、シュッツ、スカルラッティ、モンテベルディから、ヴィヴァルディ、ブラームス、チャイコフスキー、マーラー、リヒャルト・シュトラウス、ラベル、ドゥビュッシー、ショスタコービッチetc――嫌いなものがないくらい(笑)。もちろんベートーヴェンも大好きですが、特にバッハとモーツアルトは別格です。ただし、ベートーヴェンとモーツアルトが逆転したのは最近のことでした。
 ベートーヴェンの曲は知性と感性の創りうる最高の芸術です。力強く悲しく喜ばしく、かつ、しなやかで精緻に、深々と彫琢された「曲像」は大きな感銘をもたらしてくれます。弦楽四重奏曲群(ラズモフスキー3曲、No.12〜大フーガ)や、ピアノソナタ群(No.31含む)、交響曲第3番・7番、七重奏曲(op.20)などは、聴くたびに血湧き肉躍るかと思えば胸を締め付けられ、多面的・多層的な想念に打たれます。それでなにが不足なのだ? 僕は「不足なんかあるものか」と、やっぱり不足に思っていたのでしょう、ふと気付いたとき、ブラームスやブルックナー、あるいはそれ以後の作曲家の交響曲に比べて「単純だ」、と感じてしまったのです。「俺はこんなにがんばって生きてるんだ。こんなに一生懸命、作曲してるんだ」というような「精神」が透けて観(み)えて、白けることがあるのです。それでもいいのですが、「人間だなぁ」と「共感」してしまいます。
 じゃあ、バッハやモーツアルトには「共感」しないのか? と問われれば、「しない」と答えるほかありません。バッハの曲には【魂が浄(あら)われ】、モーツアルトの曲には【魂が打ちのめされる】のです。
「魂」――なんとも心もとない言葉です。僕の表現の場合、「神の精」が宿っている「こころ」、つまり「精神」のことだと受け止めてください(「こころ」ってなに? ……僕自身、適切な言葉を知りません)。
 バッハの曲は、数え上げればきりがありません。『無伴奏チェロ、ヴァイオリン、フルート組曲』、『農民、コーヒー・カンタータ』などカンタータ類、『平均律クラヴィーア曲集』、『パッサカリア』『トリオ・ソナタ』『シュプラー・コラール』『フーガの技法』等々のオルガン曲、『マタイ受難曲』『ヨハネ受難曲』『ロ短調ミサ曲』『ブランデンブルク協奏曲』『管弦楽組曲』『音楽の捧げもの』『ゴルトベルク変奏曲』『ヴァイオリン、チェンバロ、オーボエ協奏曲』――ちょっと思い出すだけでもタイピングが間に合わないくらいです。
 モーツアルトはちょっと少なくなります。シンフォニーはあんまり好きではありません。それより、なんといっても弦楽四重奏曲No.14〜23、弦楽五重奏曲No.4(K.516)、またK.331(トルコ行進曲付き)、K.396(幻想曲ハ短調)、K.397(幻想曲ニ短調)、K.475(ハ短調)をはじめとするピアノソナタ群(「幻想曲」はソナタではないらしい)、ピアノ協奏曲No.19〜27、それにオペラ『魔笛』『ドン・ジョバンニ』、さらに『レクイエム』その他――胸を切り裂かれるように切ない曲ばかりです。
 僕はコンサートよりレコードのほうが好きです(オペラですら)。コンサートは会場に出向かなければならないし、演奏が始まったら身動きすることも咳払いをすることもできないうえに、レコードより素晴らしい演奏に出会える確率はとても低い。また、演奏がつまらないと感じても、拍手をしたり、お世辞にアンコールを要求したりと、いいことはあまりありません。それより、演奏者を見る必要もなく、奏でられる曲の鑑賞に集中できる再生芸術こそが、心ゆくまで音楽と「複雑系」を成すことができます。
 というわけで、僕はオーディオマニアでもあるのです。

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